2009年10月9日金曜日

情報の概念について

「情報」とは、名詞として捉えられる何らかの対象物や、関係の項としての実体ではない。
情報とは動詞的な作用する限りでの作用であり、それは関係の項を実体として算出し続ける運動である。即ち関係を関係の項の関係として生み出しつつ関係付ける作用なのである。

こうした情報概念を導き出したのは、システム論の諸議論であり、特にルーマンの社会システム論の業績が大きい。
馬場靖雄氏の『ルーマンの社会理論』には、そのあたりのいきさつが書かれている。

ルーマンがおこなってきたのは[・・・]「違いを創り出す」ということであろう。[・・・]「学が目指すのは・・・差異を差異へと変換することであり、したがって統一性は差異が誤認されたものとしてのみ扱われるべきである。」P.ⅳ
馬場氏は、ルーマンの仕事事態が「違いを創り出すこと」「差異を差異へと変換すること」の営みであったとする。この「違いを創り出すこと」「差異を差異へと変換すること」という、創り出し、変換するという操作を、そのまま情報と呼ぶこともできる。
ルーマンの議論は、あらゆる意味で「端緒にある実体」を前提としないという点で徹底したシステム論、それも社会のシステム論になっている。

社会について論じようとするとき[・・・]伝統的な社会理論においては、出発点となるのは「個人か社会か」というかたちで取り扱われてきた。[・・・]<個人/社会>という区別が現になされており、それが後続する議論の前提として用いられ続けている限り、この区別とそれにもとづく問題設定は有効である。しかし、区別を構成する個々の項目、即ち個人と社会をそれぞれ取り出してきた場合には、それらを出発点とする議論の信憑性はたちまち失われてしまう。[・・・]個人であろうが社会であろうが、一見すると自明に思われるものを更なる諸要素へと分解したり、他の要素と結びつけて相対化することなど、いともたやすいからだ。P.14-15
われわれは、まずある区別を選び取るところから始めなければならない。[・・・]われわれは端的にある区別から始めなければならない。というよりも、自己の議論が、どの区別によってすでに始まってしまっているかを、想起しなければならないのである。P.16
なんらかの実体というのは、既に作用している関係を諸実体間の関係として関係付ける作用としての関係、あるいは情報から副次的に生み出された、一時的に他から区別されたある事柄、である。したがって実体よりも先に、実体を実体として算出する作用が働いているのである。科学にとっての課題は、なんらかの実体を自明視することではなく、その実体をそれとして算出している現に作用している関係の作用を、動的な現象として仮に対象化することである。馬場氏は次のように述べる。
問題は「○○とは何か」ではなく、「○○について語るとき、どんな区別が用いられているのか」なのである。P.44
ある○○が○○として存在するのは、それをそれとして他から区別する実践が行われている限りのことである。
今村仁司氏の『アルチュセール全哲学』の一節に、次のようにある。

認識の光が対象からくるのか(狭い意味での経験論)、精神の目からくるのか(合理論)に応じて、近代哲学の二つの類型が生まれるが、それらが鏡のなかの分身のように共通の地盤の上で戯れている事態も[…]はっきりする。P.201
見える/見えないの関係が、主体の精神のなかでの関係ではなく、主体の精神を組み入れた思考の構造(問いの構造)のなかでの構造的関係であるのだとすれば、問いの構造が作り出す境界線ないし分断線こそが、見える/見えないの区別となる。P.202
問いの構造、というのが、ある対象についての問い、あるいは語りをそもそも可能にしている、常に既に働いている対象を他から区別する作用を意味する。この意味での問いの構造が、「見えるもの」と「見えないもの」の境界線を引く、即ち問いうる対象、語りうる対象というものを生じさせているのである。

アルチュセールのこの議論は、近代の哲学の根本原理をも批判的に問い直すことを可能にする。

近代における認識理論の究極の要素は、主体と客体である。正確には主体=客体の等式である。すべての認識はこの図式の上で展開する。そして主体による認識の成果は必ず客体と一致、適合する。この一致、適合が真理と呼ばれる。P.276
・経験主義の類型 (  =客体)=真理 ・・・真理は客体のなかに含まれている。経験主義の主張は次の命題に尽きる「学的認識とはうまく作られた言説である」。

・形相主義の類型 (主体=  )=真理 ・・・真理は主体の中に含まれている。科学的認識は主体のなかに、つまり理論の中に含まれることになる。理論は結局は「よくできた言語」に帰着し、論理実証主義にいたる。
アルチュセールによれば、主体と客体とは、端緒にある、あらゆる問いの出発点にある、所与の二つの実体ではない。主体と客体を区別しつつ関係付ける、関係の項として関係付ける操作がまず行われていて、その上で、その後から、はじめて主体と客体というものを実体化して語ることも可能になり、両者の関係を論じることも可能になる。

馬場氏の議論に戻ろう。
われわれは常に、諸現象の「背景」「根底」「起源」を探ろうとする。これこれの現象が成立している、成立しているからには背後でそれを支える一般的なものが、あるいは何らかの根拠が存在するはずだ、と。一方ルーマンは、そのつど成立している事実的な事態を超えるような何かを、さらにはその事態の「起源」を想定することを徹底的に拒否する。[・・・]一般的なもの、根底にあるものは、事後的な観察によって初めて見出される。

問題は最終審級をあれからこれへと移すことではない。[・・・]出発点を誤ったところから正しいところへ移すことではない。[・・・]問題は特定のところから出発しうるという観念そのものなのである。P.138
「観察」というのも、運動としての情報のひとつの働き方である。
システム論は、観察者と被観察対象との関係をも、システムとその環境を区別する作用の作動として捉える。しかしシステム論を素朴に理解すると、そこにはシステムという実体と、環境という実体、という二つの所与の実体があらかじめ見出されてしまう。こうした誤解を避ける上で有効な手がかりになるのが、社会システム論なのである。社会システム論は、あらゆる実体をそれを算出する差異の作動に先立って措定することができないロジックになっている。すなわち、あらゆる実体を実体として算出する差異の作動の実態とは、コミュニケーションの後にコミュニケーションが続き、連鎖するという社会システムを社会システムとして生み出す作用に他ならないのである。ある実体をあたかも自明な所与のように扱うことができるのは、こういうコミュニケーションの連鎖の一部を切り出してみたときだけである。



2009年5月9日土曜日

丸山圭三郎 『生の円環運動』 紀伊国屋書店,1992

この本はひとつの実践としての思想へのいざないである。

「死を想う」ことは、意識の表層と深層・古層とのあいだを往還し、絶えず差異化される生のエネルギーの円環運動を持続させる<知>の実践を意味する P.7
 こういうはしがきはら始まる本書は「死」を認識する、わたしたちの「ものの見方」に問いかける。

 前半では、今日、「死」ということが、われわれ現代人の「生」から、いかに隠蔽され、遠ざけられ、それについて想像することも考えることもできないような、漠とした物質的な終焉に還元されてしまったことが批判的に述べられる。
 
 死を物としての終焉と「みなす」、われわれの頭の使い方の癖の根底には、次のような事情がある。

 今日、われわれの日常の意識は、世界を区別された物の体系として理解している。即ち「日常の意識ではどんな物にも形があり、ひとつひとつが独立して存在しているように見える。」のである。
 しかし、世界をそのような個物を最小単位とする体系とみなすのは、丸山の言葉でいえば、われわれの「表層」の意識の作用にすぎないのである。意識には、この表層の意識とは別に、深層の意識というものがある。深層の意識においては「物と物の境がとれた流動の世界が開けてP.93」いる。

表層こそ物のように固まった観念やイデオロギーの領域であり、深層は身の底にあって流動してやまないイメージや物質の生成の場だからである。P.105

 こうした深層の意識ということを理解するためには、それに先立って、表層の意識、と丸山が呼ぶ、われわれが囚われている「事実」「確固たる現実」といったものの自明性、事物的な所与性を解除しておかなければならない。ここから丸山は「ものを作る視点」という話に展開していく。

私たちは<ものの見方>以前に事実があるのは当然だと思い込んでいる。だが、事実を作り出すのは始点のほうなのではないだろうか。P.107
 われわれの<ものの見方>を構成している一因が、ほかでもない、「コトバ」なのである。ここでいうコトバとは、どこかにおいてある物ではない。コトバは、われわれの深層の意識から表層の意識へと、われわれの意識(無意識)が絶えず突き抜ける運動そのものである。
 しかしわれわれは、この意識の元来の創造性を忘れ、「コトバが生み出したヴァーチャルリアリティを客観的実在と思い込んでその物神崇拝に陥っているP.227」のである。

 最初にあるのは、事物ではない。

 「事物や人を生み出す関係」
 「総体があってはじめて個が生まれる関係性」
 
 といった、関係の項を関係の項として関係付けつつ生成させる運動としての関係が、端緒において作用している。そして、この作用こそが、<生の円環運動>なのである。

 円環運動というのは、意識の表層から深層へと降りて行き、そしてまた深層から表層へと立ち戻る、という往還の運動を意味するのである。こういう往還こそが、人間の精神が本来もっている作用であり、この作用が失われたとき、ひとが「紋きり型の日常パターンに閉じこもったり、逆に幻想の世界に閉じこもるとき」、人は狂気に陥るという。
 そして、死、事物としての己の死、といったことを考えているのは、われわれ人間が、自分自身や他者の存在を、即自的に存在する事物だと思い込み、その事物がその事物でなくなった後のことを思考できなくなっている時代の、ひとつの<ものの見方>のひとつの癖のようなものなのだ。

 物としての持続という観念にとらわれなければ、死は、生と別のことではない。死を、生と連続したひとつの運動体、運動のプロセスとして捉える考え方も、われわれには可能なのである。














2009年3月20日金曜日

木田元『ハイデガーの思想』

ハイデガーを読み直そうと思う。

いきなり読み始めると、鬱蒼とした樹海に迷い込んだ挙句、野犬に追いかけられるような状態になるので、ここは初めに地図を用意しておこう。

というわけで、木田元氏の『ハイデガーの思想』と『ハイデガー 『存在と時間』の構築』『現象学』を大雑把に整理してみる。


■ 【背景】

ハイデガーが思考を行った時代背景をまず抑えておく必要がある。
それは木田氏によれば、つぎのようなものの考え方の過渡期であった。

 「存在するもの」から「意識」へ視線を転ずるということ= 意識への回帰
 (木田元 現象学 P.79)

 ▼意識=純粋主観性の領野を限定し、体系的に踏査することが「現象学」なのである。 
 

■ 【ハイデガーの主題】

こうした中で、ハイデガーは何を求めたかといえば、存在が存在するとはどういうことか、を問おうとしたのである。
 「哲学は、存在者を存在者たらしめている「存在Sein」の意味を問う”存在論”であるべき…」(『現象学』P.88)
  「存在Sein」に近づくためには、「存在とは何か」を理解している特殊な存在者=人間(あくまでも事実的な状況の中に生きている人間)=現存在を手がかりとするほかない。「現存在は存在しつつ、存在といったようなものを了解しているといった仕方で存在している・・・」(ZS17)」
ここでハイデガーは「存在論への通路として」人間の存在する仕方を問うたのである。

おりしも、冒頭に述べたように、「「存在するもの」から「意識」へ視線を転ずる」という思想の潮流のなかで、存在への問いもまた、「存在といったようなものを了解している」特別な存在である人間(現存在というコトバで呼ばれる)が存在を存在すると了解するやり方を問うことになるのである。
世界を世界たらしめている構造を明らかにする手がかりとして、我々にもっとも身近な存在者である「道具」の存在構造を引き合いにだす(SZ67)

▼「道具的」に存在するフツーの人間

人間のが存在を存在すると了解する仕方を問う…というとき、鍵になるのはこの「人間」の概念である。『存在と時間』の大部分は、この人間の概念(ハイデガーは現存在というコトバで呼ぶ)をどう規定するかをめぐって展開されている。存在への問いが、人間への問いという形で問われているのである。

 で、存在するものの存在を了解している人間のあり方というのは・・・
 フツーに、何気なく、日常的な意識で暮らしている限りは「道具的」であるという。

 道具的に存在するとは、一体どういうことであろうか。

 ハイデガーによれば、我々人間(現存在)は、「自己自身の存在を世界の側から、即ち現存在が本質上いつもとりあえず交渉している相手側の存在者の方から、理解しようとする傾向を持っている」(『存在と時間(上)』P.055)というのである。

 この、我々人間(現存在)が、「いつもとりあえず交渉している相手」というのが、何かの役に立つ、我々がいつも手もとで「使っている道具」たちなのである。

 道具は、「何かのために役に立つ」というあり方をしている。
 そして我々が生きる世界は、さまざまな道具が、互いに補いつつさまざまな役割をはたすことで、われわれが生きられる環境として出来上がっているのである。この道具の群のあり方を、ハイデガーは特に「道具連関」という言葉でさしている。これは、個々の道具、ひとつひとつの個別の道具が私たち使い手にとって仕様対象として現れる前に、それらはすでにあらかじめひとまとまりの群として我々を取り囲んでいるということを強調するためである。・・・そういう話にしておかないと、「あらかじめ存在する個々の道具」というのが、人間に先立つ、人間を作り第一次的な存在ということになってしまうからね??
 
 で、自分の周囲の環境を、そういう潜在的に使用可能な道具の群として捉え、位置づけているのは、ほでもない、人間の側、現存在の側の「己自身の可能性に対する気がかり」というココロのあり方なのである。


■人間が化ける

 ハイデガーは、存在が存在するとはどういうことかを問うときに、物事を存在しているとして了解する人間のハタラキの中にその答えを求めようとした。
 このとき、人間のあり方が問題になるが・・・、
 人間というのはフツーにボーっと暮らしている限りでは、自分が見出し、慣れ親しんでいる環境世界にどっぷりと浸かっているのである。
現存在は、いつもすでにその世界に投げ込まれてしまっている(被投性)。
 こういう人間が、「存在」ということについて、改めて自覚的に考えるようになるためには、自分が安穏と、何気なく存在し続けていられないという可能性に気づいたとき、即ち、「死」ということを考え始め、自分自身を死ぬ可能性があるものとしてとらえはじめたときだ… といった話に展開していくのである。

 こまかいところは↓わたしの解説を読むより、日本語訳を読むなり、能力の高い御仁であれば、原著を読んでいただければよいと思う。


 わたしが『存在と時間』に興味を覚えるのは、そこで人間ということが、安穏と何も考えずに暮らしていられる生き方から、そうではなく、自分が居るとはどういうことか問うてしまうようになる、という「認識を変化させる」生き物として定義されている点だ。

 人間を動的に捉え、変化のプロセスと捉えること。
 
 そういう動的な人間の概念というのは、今日意外と流行らなくなっているような気がする。

 ハイデガーの人間概念もまた、行ってみれば、人間のあり方を人間自身の活動によってよりよい姿に作り変えることができるという、「近代」の理想のようなものとリンクしているといえなくもない。


 ところが今は、そういう理想は流行らない。ただ生きているだけで、生まれてから死ぬまで、「同じ」であるかのようになんとなく信じて居られる社会。それは幸福な社会というべきかどうか。








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