いきなり読み始めると、鬱蒼とした樹海に迷い込んだ挙句、野犬に追いかけられるような状態になるので、ここは初めに地図を用意しておこう。
というわけで、木田元氏の『ハイデガーの思想』と『ハイデガー 『存在と時間』の構築』『現象学』を大雑把に整理してみる。
■ 【背景】
ハイデガーが思考を行った時代背景をまず抑えておく必要がある。
それは木田氏によれば、つぎのようなものの考え方の過渡期であった。
「存在するもの」から「意識」へ視線を転ずるということ= 意識への回帰
(木田元 現象学 P.79)
▼意識=純粋主観性の領野を限定し、体系的に踏査することが「現象学」なのである。
■ 【ハイデガーの主題】
こうした中で、ハイデガーは何を求めたかといえば、存在が存在するとはどういうことか、を問おうとしたのである。
「哲学は、存在者を存在者たらしめている「存在Sein」の意味を問う”存在論”であるべき…」(『現象学』P.88)
「存在Sein」に近づくためには、「存在とは何か」を理解している特殊な存在者=人間(あくまでも事実的な状況の中に生きている人間)=現存在を手がかりとするほかない。「現存在は存在しつつ、存在といったようなものを了解しているといった仕方で存在している・・・」(ZS17)」ここでハイデガーは「存在論への通路として」人間の存在する仕方を問うたのである。
おりしも、冒頭に述べたように、「「存在するもの」から「意識」へ視線を転ずる」という思想の潮流のなかで、存在への問いもまた、「存在といったようなものを了解している」特別な存在である人間(現存在というコトバで呼ばれる)が存在を存在すると了解するやり方を問うことになるのである。
世界を世界たらしめている構造を明らかにする手がかりとして、我々にもっとも身近な存在者である「道具」の存在構造を引き合いにだす(SZ67)
▼「道具的」に存在するフツーの人間
人間のが存在を存在すると了解する仕方を問う…というとき、鍵になるのはこの「人間」の概念である。『存在と時間』の大部分は、この人間の概念(ハイデガーは現存在というコトバで呼ぶ)をどう規定するかをめぐって展開されている。存在への問いが、人間への問いという形で問われているのである。
で、存在するものの存在を了解している人間のあり方というのは・・・
フツーに、何気なく、日常的な意識で暮らしている限りは「道具的」であるという。
道具的に存在するとは、一体どういうことであろうか。
ハイデガーによれば、我々人間(現存在)は、「自己自身の存在を世界の側から、即ち現存在が本質上いつもとりあえず交渉している相手側の存在者の方から、理解しようとする傾向を持っている」(『存在と時間(上)』P.055)というのである。
この、我々人間(現存在)が、「いつもとりあえず交渉している相手」というのが、何かの役に立つ、我々がいつも手もとで「使っている道具」たちなのである。
道具は、「何かのために役に立つ」というあり方をしている。
そして我々が生きる世界は、さまざまな道具が、互いに補いつつさまざまな役割をはたすことで、われわれが生きられる環境として出来上がっているのである。この道具の群のあり方を、ハイデガーは特に「道具連関」という言葉でさしている。これは、個々の道具、ひとつひとつの個別の道具が私たち使い手にとって仕様対象として現れる前に、それらはすでにあらかじめひとまとまりの群として我々を取り囲んでいるということを強調するためである。・・・そういう話にしておかないと、「あらかじめ存在する個々の道具」というのが、人間に先立つ、人間を作り第一次的な存在ということになってしまうからね??
で、自分の周囲の環境を、そういう潜在的に使用可能な道具の群として捉え、位置づけているのは、ほでもない、人間の側、現存在の側の「己自身の可能性に対する気がかり」というココロのあり方なのである。
■人間が化ける
ハイデガーは、存在が存在するとはどういうことかを問うときに、物事を存在しているとして了解する人間のハタラキの中にその答えを求めようとした。
このとき、人間のあり方が問題になるが・・・、
人間というのはフツーにボーっと暮らしている限りでは、自分が見出し、慣れ親しんでいる環境世界にどっぷりと浸かっているのである。
現存在は、いつもすでにその世界に投げ込まれてしまっている(被投性)。こういう人間が、「存在」ということについて、改めて自覚的に考えるようになるためには、自分が安穏と、何気なく存在し続けていられないという可能性に気づいたとき、即ち、「死」ということを考え始め、自分自身を死ぬ可能性があるものとしてとらえはじめたときだ… といった話に展開していくのである。
こまかいところは↓わたしの解説を読むより、日本語訳を読むなり、能力の高い御仁であれば、原著を読んでいただければよいと思う。
わたしが『存在と時間』に興味を覚えるのは、そこで人間ということが、安穏と何も考えずに暮らしていられる生き方から、そうではなく、自分が居るとはどういうことか問うてしまうようになる、という「認識を変化させる」生き物として定義されている点だ。
人間を動的に捉え、変化のプロセスと捉えること。
そういう動的な人間の概念というのは、今日意外と流行らなくなっているような気がする。
ハイデガーの人間概念もまた、行ってみれば、人間のあり方を人間自身の活動によってよりよい姿に作り変えることができるという、「近代」の理想のようなものとリンクしているといえなくもない。
ところが今は、そういう理想は流行らない。ただ生きているだけで、生まれてから死ぬまで、「同じ」であるかのようになんとなく信じて居られる社会。それは幸福な社会というべきかどうか。
↑自分で考えたい人はコチラからどうぞ(^^;
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