2009年5月9日土曜日

丸山圭三郎 『生の円環運動』 紀伊国屋書店,1992

この本はひとつの実践としての思想へのいざないである。

「死を想う」ことは、意識の表層と深層・古層とのあいだを往還し、絶えず差異化される生のエネルギーの円環運動を持続させる<知>の実践を意味する P.7
 こういうはしがきはら始まる本書は「死」を認識する、わたしたちの「ものの見方」に問いかける。

 前半では、今日、「死」ということが、われわれ現代人の「生」から、いかに隠蔽され、遠ざけられ、それについて想像することも考えることもできないような、漠とした物質的な終焉に還元されてしまったことが批判的に述べられる。
 
 死を物としての終焉と「みなす」、われわれの頭の使い方の癖の根底には、次のような事情がある。

 今日、われわれの日常の意識は、世界を区別された物の体系として理解している。即ち「日常の意識ではどんな物にも形があり、ひとつひとつが独立して存在しているように見える。」のである。
 しかし、世界をそのような個物を最小単位とする体系とみなすのは、丸山の言葉でいえば、われわれの「表層」の意識の作用にすぎないのである。意識には、この表層の意識とは別に、深層の意識というものがある。深層の意識においては「物と物の境がとれた流動の世界が開けてP.93」いる。

表層こそ物のように固まった観念やイデオロギーの領域であり、深層は身の底にあって流動してやまないイメージや物質の生成の場だからである。P.105

 こうした深層の意識ということを理解するためには、それに先立って、表層の意識、と丸山が呼ぶ、われわれが囚われている「事実」「確固たる現実」といったものの自明性、事物的な所与性を解除しておかなければならない。ここから丸山は「ものを作る視点」という話に展開していく。

私たちは<ものの見方>以前に事実があるのは当然だと思い込んでいる。だが、事実を作り出すのは始点のほうなのではないだろうか。P.107
 われわれの<ものの見方>を構成している一因が、ほかでもない、「コトバ」なのである。ここでいうコトバとは、どこかにおいてある物ではない。コトバは、われわれの深層の意識から表層の意識へと、われわれの意識(無意識)が絶えず突き抜ける運動そのものである。
 しかしわれわれは、この意識の元来の創造性を忘れ、「コトバが生み出したヴァーチャルリアリティを客観的実在と思い込んでその物神崇拝に陥っているP.227」のである。

 最初にあるのは、事物ではない。

 「事物や人を生み出す関係」
 「総体があってはじめて個が生まれる関係性」
 
 といった、関係の項を関係の項として関係付けつつ生成させる運動としての関係が、端緒において作用している。そして、この作用こそが、<生の円環運動>なのである。

 円環運動というのは、意識の表層から深層へと降りて行き、そしてまた深層から表層へと立ち戻る、という往還の運動を意味するのである。こういう往還こそが、人間の精神が本来もっている作用であり、この作用が失われたとき、ひとが「紋きり型の日常パターンに閉じこもったり、逆に幻想の世界に閉じこもるとき」、人は狂気に陥るという。
 そして、死、事物としての己の死、といったことを考えているのは、われわれ人間が、自分自身や他者の存在を、即自的に存在する事物だと思い込み、その事物がその事物でなくなった後のことを思考できなくなっている時代の、ひとつの<ものの見方>のひとつの癖のようなものなのだ。

 物としての持続という観念にとらわれなければ、死は、生と別のことではない。死を、生と連続したひとつの運動体、運動のプロセスとして捉える考え方も、われわれには可能なのである。














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